小さな鉄板焼屋の大きなつぶやき。

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東日本大震災と父の死

 

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 【写真:石巻市牡鹿半島・寄磯浜の漁港】

 

私の父親の故郷は、宮城県石巻市牡鹿半島の外れにある『寄磯浜』という所です。

父がその故郷を離れ半世紀以上経ったある日、

『生まれ育った寄磯に行ってみたいなあ。』とつぶやきました。

もう父親の年齢は70代後半になっていました。

『時間ができたら、そのうちに連れて行くよ。』

私はそう軽く返答しました。

 

その会話から1年後。

東日本大震災が起こりました。

2011年3月、私は秋田県由利本荘市という震源地からは程遠い所にいましたが、

それでも、その地震の揺れの大きさに驚きました。

ちょうど飲食店である職場で、その日の宴会準備の真最中でした。

大きな横揺れが長く続き、お店のボトルやお皿などを押さえつつ、2階に住んでいる

両親のことが気になり、慌てて行ってみると、リビングにある金魚の水槽が大きな横揺

れの為に水が飛び散り、それを必死の形相で押さえている父の姿がありました。

そして間もなく、全ての電源が落ち、停電となり、不気味な静寂が訪れました。。。

 

その大震災を境に、父は『故郷に行きたい』とは言わなくなりました。

 

父の故郷である牡鹿半島は、大震災による津波の影響でかなりの被害や犠牲者が出て

いました。父の知る故郷は『すべて消失した』というような噂も耳にしました。

 

そんな父も2016年に他界しました。

結局故郷を見ることなく。。。

 

今年2018年5月には、父の3回忌法要が営まれ、それを機会に私を含め親族で

父の生まれ故郷の牡鹿半島に行き、供養してこようと思い立ちました。

母親以外は誰も行ったことのない場所でした。

 

前日に宮城県入りし、秋保温泉で一泊しました。

牡鹿半島に向かう当日はあいにくの雨。

不安と緊張が、冷たい雨の為に一層深まりました。

 

『どこまで復興が進んでいるのだろうか?』

『無事に父親の故郷に辿り着くのだろうか?』

 

誰も口には出しませんでしたが、みんな同じ気持ちだったと思います。

 

仙台市内は相変わらず交通量が多く、街にも活気を感じました。

しかし石巻市に近づくにつれ、ダンプなどの工事車両が多くなり、工事中の道路や

新しく作られた堤防なども多く目に付くようになりました。

 

街は何事もなかったように佇んでいても、無言のメッセージがいたる所から

発せられているような気がしました。

 

石巻の工場地帯をすり抜け、大きな橋を渡り、ついに牡鹿半島に車は入りました。

徐々に人影が少なくなり、建物がまばらになってきました。

道路はいたるところ崩れており、工事中が多くなってきました。

これも地震の影響なのかもしれません。

車のナビを頼りに、どんどん進むにつれ、無事に帰って来れるか不安になりました。

 

『果たして、無事に、父の故郷まで道が続いているのだろうか?』

 

道路は車1台通るのが精一杯なほど道幅が狭く、対向車が来るとかなり厳しい感じで

した。おまけに走っている車は大きなダンプばかり。。。

行く途中に漁港がいくつかありましたが、どこの漁港にも人影はありませんでした。

そして民家も、建物もない!

あるのは新しく盛土された、何もない土地ばかり。。。

 

津波で民家などはすべて流されてしまったのだろうか?

 

そう思うと、寂しさと悲しさが一気に押し寄せてきました。

まずは前を向いて、少しでも早く、父の故郷に辿り着かなくては!

そう自分に言い聞かせ、必死に車を走らせました。

車内には親族5人が乗っていましたが、ほぼみんな無言になってしまいました。

 

結局牡鹿半島に入ってから2時間近く経過したでしょうか?

沿岸にもかかわらずかなりの険しい山道で、途中迷ったり、引き返したりしながら

どうにか父の故郷である『寄磯浜の漁港』まで辿り着きました。

やはり父が生まれ育った家や近辺などは分からず、漁港まで来るのがやっとでした。

その場所でみんなで手を合わせ、そして写真を撮り、いにしえの父の姿を想像し、

足早に立ち去りました。

雨は冷たく、気温は低く、寒くて、寂しくて、帰路の不安だけが頭をよぎりました。

 

帰りの車中で私はずっと考えていました。

何かが私に語りかけてくるような気がしました。

 

故郷、思い出、自然災害。。。そして何もない故郷。。。

。。。復興、新たなる旅立ち。。。。。

 

これらのキーワードと共に、頭の中でぐるぐる考えていると、

あることばが浮かびました。

 

『自然は自然に還る。』

 

せっかく人間が開拓し、家を建て、そこで生活しても、人は必ず死んでしまう。

そして家や畑や漁港や工場など、人が死ねばすべては朽ち果て、そして自然に還る。

たくさんの思い出も一緒に。

人間は自分たちの営みを、永遠のものと錯覚し、そして後世末長く続くことを願う。

しかし、形あるものはいつか必ず無くなり、自然に還る。。。

 

そしてわたしが最も強く感じたのは、

 

地震などの自然災害は人間にとっては災害だが、自然にしてみれば災害ではなく、

 当然の自然現象であり、自浄作用だったのだろうか?』

 

ということです。

私は決して人間を卑下してはいません。

亡くなられた人たちや、残された親族たちの深い悲しみも痛いほど良く分かる

つもりです。

だからこそ、自然災害は特殊なことではなく、自然が自然としてそこにある以上、

人間が理解した上で寄り添わないといけないと思うのです。

 

自然は人間だけのものではありません。

 

人間だけが都合良く使える場所ではありません。

 

『自然は自然に還る。』すなわち、『自然は常に自然に還ろうとする。』

 

これは誰も止めることはできない、自然の原理原則のような気がするのです。

 

人間が死ねば灰になり、土に還るように、自然も時が時がくれば自然に還り、

 

人間の手つかずの『本来の姿』に戻る。

 

そう考えると、地震や噴火などの自然災害は、『自然の怒りや異変』ではなく、

 

自然が自然に戻る為の、必要不可欠な自然現象なのかも知れません。

 

大震災から父の死。

たくさんのことを考えさせられました。